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田中前首相は1976年

田中前首相は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中前首相に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中前首相はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

なお、田中前首相は下級審有罪判決後も衆議院議員を辞任せず、その後の選挙でも地元新潟の有権者が田中前首相を国会に送り続けたことや、いわゆる田中派が長らく自由民主党内での最大派閥の座を維持したことから、「闇将軍」などと呼ばれ、逮捕後の総理総裁擁立に影響力を与えたほか、1987年に発生したいわゆる「皇民党事件」(田中前首相の有罪判決後に袂を分かった竹下登経世会会長に対する嫌がらせを止めるために暴力団が関与した事件)にその名が取りざたされるなど、その後も政界に大きな影響力を維持した。

田中前首相秘書 [編集]
田中前首相の秘書官の榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。その後夫人の三恵子が「榎本が5億円の受領を認める発言をしていた」と法廷で証言した(いわゆる「蜂の一刺し」証言)ことなどを受け、1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は秘書の最終審判決という形で田中前首相の5億円収受を認定した。

橋本元運輸相と佐藤衆院議員 [編集]
受託収賄に問われた橋本登美三郎元運輸大臣と佐藤孝行元運輸政務次官も、1976年8月に相次いで東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された。逮捕後に橋本と佐藤は自由民主党を離党した。

橋本は逮捕されたこともあり1980年に行われた衆議院選挙に落選して政界から引退。その後1審、2審で有罪判決を受けるも、上告中の1990年に死亡したために公訴棄却となった。

佐藤は1審、2審で有罪判決となり執行猶予付きの有罪が確定した。しかし執行猶予期間終了後に自民党に復党し、宮沢喜一政権下で自民党総務会長などの要職を歴任。1997年に総務庁長官で初入閣するも、ロッキード事件で有罪が確定した政治家の閣僚入りに世間の反発を招き、わずか12日で辞任した。

児玉誉士夫 [編集]
児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称し自宅にこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や検察に対する批判も集中した。その後児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉の豪邸へ小型軽飛行機による自爆テロを行なったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年1月に死亡した。

小佐野賢治 [編集]
小佐野は、1976年2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が議院証言法違反にとわれ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年10月に小佐野が死亡したために被告死亡により公訴棄却となった。

「全日空ルート」 [編集]
「全日空ルート」の贈賄側とみなされた若狭が1976年7月に外為法違反容疑および議院証言法違反により逮捕、起訴された他、その前後にも副社長の渡辺以下多数の社員が芋づる式に逮捕、起訴された。この様に部下の多くが逮捕され、自身も刑事被告人の立場であるにもかかわらず若狭は同年に全日空会長に就任し、社内だけでなく株主やマスコミからも大きく批判された。しかし全日空及び若狭はこれを無視し続け、その後1991年(平成3年)には名誉会長に就任した。
翌1992年(平成4年)9月に最高裁判所は若狭に対し懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を下したものの、続けて会長の座に居座り続けた挙句、1996年(平成8年)に日本航空協会会長に就任し、その後も「航空業界のドン」として君臨しつづける土台を作った。その上、翌1997年(平成9年)には当時の全日空の社長である普勝清治の後継をめぐり社内抗争を展開するが、社内外から多くの批判を浴びたことを受けて相談役に退き、2005年に死亡した。

「丸紅ルート」 [編集]
「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山広は1976年7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年に田中元首相の秘書の榎本とともに最高裁判所で実刑が確定されたものの、高齢のため執行停止となり、収監されないまま2000年に死去した。この間も1985年から1999年まで丸紅名誉顧問を務めた。

なお、2000年代に入り他の被告も次々と病死し、2008年現在生存するロッキード事件の元被告は榎本、佐藤孝行、太刀川恒夫の3人のみとなった。

その後 [編集]

全日空が発注したDC-10 [編集]
全日空が発注キャンセルしたものの、既に製造中であったマクドネル・ダグラスDC-10は3機あったが、マクドネル・ダグラス社はトライスター導入によりキャンセルとなったDC-10を売れ残った他の機体と共に各国の航空会社にダンピング販売(通称ホワイトテールと呼ばれる)した。

そのうちの1機がトルコ航空に販売され、のちに1974年にトルコ航空DC-10パリ墜落事故を引き起こした(この事故の原因はマクドネル・ダグラスDC-10の設計上の欠陥により後方の貨物室ドアが完全に閉まらない問題により与圧と外気圧の気圧差によりドアと共に油圧装置ごと吹き飛んだ事による物であった。しかもダグラス社は、この問題を認知しながら小規模な改良のみを施し欠陥を放置していた)。

全日空に納入されたトライスター [編集]
全日空はL-1011 トライスターを事件発覚前の1974年2月から随時導入し、事件が明らかになった後も導入を続けて最盛期には21機保有した。

全日空は同機を国内線の主要機種として、また1986年に初就航した国際線の主要機種として使用したものの、1979年から始まったより大型なボーイング747SRの導入や、1985年から始まったより燃費効率に優れるボーイング767の導入を受けて、1995年を最後に全機退役させた。

全日空での運航中に人身事故や全損事故を起こしていない全日空にとって稀有な機種のひとつでもある。先述のトルコ航空の事故の欠陥放置と合わせて見れば、怪我の功名とも言える皮肉な結果であると言えよう。

後に事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが、『ロッキード事件は間違いだった』と中曽根康弘に述べたとされる(ただし、どのような意味で「間違い」だとしてるのかは不明である)。

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード社のコーチャン副社長とクラッター元東京駐在事務所代表が、無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が誤って上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソ連やアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中前首相の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中華人民共和国と急接近していた田中前首相を快く思っていなかったアメリカ政府が田中前首相を排除する意味があったとする説が田原総一郎の書いた記事などで当時から有力だが、田中前首相による中華人民共和国との国交成立に反発していた右翼や自民党福田派、その他、田中前首相の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

誤配説について [編集]
ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判るとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。また、当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

コーチャンとクラッター [編集]
また、コーチャン、クラッター両名が起訴されていない点については、

両名に対する嘱託尋問がアメリカで行なわれるに際して、アメリカに在住する両名は当初証言を拒否し、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察が刑事訴訟法第248条に基づき事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。その点を考慮すれば両名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。なお、この証言は一審・二審と採用されたが、最高裁では贈賄側に免責を与えた上での国外における証言を日本の法律は想定していないとして無効とされた上で他の証拠を元に有罪判決が維持されている。

ロッキード事件にかかわる問題点 [編集]

金額の不一致(政治主義裁判) [編集]
ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。

他方で、問題にすべきは事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。また、私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中前首相に渡った(とされる)資金とは、たとえその額に大きな違いがあるとしても、同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。

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2009年04月09日 18:07に投稿されたエントリーのページです。

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